能天気を恥じ お詫びします。

飯島勝彦


   多津衛民芸館のホームページへの初稿に、こんな見出しで書くなど思いもよらなかった。

拙著「銀河鉄道の夢」(梨の木舎・202212月刊)の「少年」中、「ロダン」とすべきところを「ゴッホ」と書いてしまった。17ページ左から7行目である。

発刊から18ヵ月もたってそれに気づいたのは面目ないが、喉に小骨が残るような違和感がずっとあった。それは、中学校の恩師・小林亘(わたる)先生(諏訪郡富士見町在住・93歳)からの手紙の一節で、長い違和感の謎が解けた。

拙著を扱っていただいている多津衛民芸館の、前館長の吉川さんをはじめ皆さんに相談すると、「お詫びだけじゃなく、そのいきさつをエッセイにしたらどうか」とアドバイスをくれた。

読んでいただいた皆さんには一途にお詫びするばかりだが、以後にてん末をお伝えし、ご寛(じょ)をお願いしたく、後悔と汗顔の思いでそれに従った。

小説は、少年が中二の時、新卒でクラス担任になった小林亘先生にふれ、まだ詰襟の学生服で教壇に立つ(白(せき)の長身によく似合った)先生の初宿直を訪ね、見せられたロダンのトルソの写真集に強烈な印象を受けた。

それは、燃え上がるゴッホの画面を前に「わだはゴッホになる!」と叫んだ棟方志功の感動に似ていた。「わだはロダンになる!」ほどの叫びを少年は胸の内に呑んだ—。そう—「ゴッホではなくロダンだったのだ!」。

こんなケアレスミスをなぜしてしまったのか?そして、なぜ今頃になって気づいたのか。

信濃毎日新聞の新刊紹介欄に棟方志功の伝記が載り、先の叫びが「わァゴッホになる!」とあるのを読んだのが先月のこと。私は「わだば(吾は)」と記憶していたが、方言だから「わ(吾)ァ」という言い方もあるのだなぐらいに思い―その時ふっと、小林先生の手紙のうち、なぜか気にかかっていた一文がうかび、読み直してみた。

小林先生には上梓のたび丁寧な論評を送っていただいている。二年前の年末、返礼の便に「・・・初宿直に押しかけた歓迎会のこと(「少年」)・・・あのように仕組んで書き小説として発展させた効果(小説といて膨らめたおもしろさ)(著者としてはご苦労えお伴う)を知りました」とあった一節。

誉め言葉の中に挟まれた短いそれ(・・)は、「はて?」と微かな疑念を持たせながらも、字数と詰めた5枚の便せんに埋もれてしまった。—小説にフィクションはつきものだが、周知の事実と異なるものなら良識が問われる。棟方志功に共鳴する少年であったが、ゴッホまで真似てはいけなかった。トルソといえばロダン—弁解の余地はない。

先生が繕ってくれた文面にそぐわない軽率ミスで、物書きの端くれなどと自惚れた自己嫌悪と自信喪失を、先生へ正直にお伝えした。

「ああ、そのこと」先生の頓着ない声が電話のむこうから返り、「それよりも、いま、認知の進んだ妻を娘がデイケアに連れ出したところでね。『行って決まあす』に『はいよぉ』と答えたところだ」と笑った。

「序」の中の、私と妻の永訣の会話を、先生は「妻を送り出す言葉にこれ以上のものはありません」と書いてくれた。緊張が少しゆるみ、吸入器の先がふっと鼻腔を突き上げた。有難かった。

先生は同じ手紙で、「鳴き続ける『蟋蟀』(こおろぎ)の字義」について、「悉」は「ことごとく、全て」、「率」は「先に立ちひきいる」—「何という立派な字を貰っている虫でしょう」と記し、「私も励まされながら」として、「画布を張る 音とんとんと ちちろ(・・・)鳴く」(ちちろ=こおろぎの別名)の句を添えてくれた。その句に火を(おこ)されたことも、多津衛民芸館や梨の木舎のホームページへ送稿を始める一因になった。

 

最後に、読んでいただいた皆さん全てに、改めてお詫びをし、繰り返しはしないこととお誓いしたい。(20247月)

 

 


梨の木舎編集のコラムです。多津衛民芸館理事であり、農民文学作家である飯島勝彦が、今の世の中に思うこと、後世に伝えたいことを発信しています。どうぞご覧ください。